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一部の人からラジオくんと呼ばれています。

ハレとケ:都会が祭りに見えた日

自分はコミュニティメディアの人であって、いわゆるコミュニティづくりとかコミュニティデザインとかになると専門外なのですが、なにかとそういう話の近くにいることもあり語る機会もないこともないので整理の意味も込めてコミュニティ観みたいなものを記してみます。

地方で生まれ育った人が東京で初めて渋谷だとか新宿だとかの人の多さを見て「これは何の祭りだ」と驚く、みたいな話はよくあります。

祭りというのは「ハレとケ」でいうところのハレ、すなわち非日常であるわけです。自分の例で言うと、もともと生まれ育ったまちは5000人ほどの人口規模のところで、となりまちであった7万人ほどの地方都市に出掛けることも、幼いころは充分「ハレ」でありました。地元にはおもちゃ屋さんが無かったんです。(のちに合併して同じ自治体となりました)

たとえば成長して大人になったり(≒自分で使えるお金が増えたり)、交通アクセスが良くなったりして行動範囲が広がると、「ハレ」の閾値が上がるわけです。いったん東京の「祭り」を見ると、7万人ほどの街は「ハレ」感が相対的に小さく見えるし、東京のような大都市で暮らして人がたくさんいることに慣れると、人の多さを祭りに感じることも無くなり、3万人以上が都心部を走るマラソン大会みたいな「新たな非日常」を生み出したりすることになります。東京マラソン走ってみてえよ。

「ハレ」の閾値は、行動範囲の拡大とともに情報化によっても起こります。様々なエリア、様々な情報にアクセスすることが容易になると、「ハレ」の閾値はインフレ状態になっていくのです。

この「ハレとケ」という概念はあくまで日常と非日常の対比であって、都会的であるか否か、洗練されているか否かではありません。なので、逆に東京しか知らない人が非日常を求めて地方へやってきたりするわけですね。手付かずの山村風景が「ハレ」になることもある。

ところでコミュニティと現在呼ばれているものの多くは、「ケ」のほうに軸足があります。コミュニティの日常を、どう維持するか。その視点で、さまざまな慣習やルールなどが決まっているのです。こうした文脈のなかに置かれる「ハレ」というのは、あくまでそこにある「ケ=日常」を破壊しない程度の「ハレ」でなければいけません。「ハレ」の日が終わった翌日には、いつもの日常(=ケ)がきちんとあることが重要なのです。持続するコミュニティというのは「ハレ」の度合いが上手くチューニングされているのではないでしょうか。逆に「ハレ」を維持することのみに執心してるようなコミュニティは、ちょっと厳しく見えますね。

前述のハレ閾値インフレによって、このチューニングが難しくなることがあります。これまで行なわれてきた(実際の意味での)祭りに人が集まらなくなってきた、担い手が居なくなってきた、という話はよくありますね。その祭りがハレとしての機能をなくしたというよりは、関わる人々のハレ閾値がインフレになったことによりコミュニティの「ケ」を維持することが難しくなったといえるのではないでしょうか。

いちおう日本の話に限れば、人口減少のトレンドはもうひっくり返らないわけです。自然増減で言えば長期的にはどのコミュニティも人は減ってゆく。そうするとカギは社会増減なのですが、ハレ閾値インフレの背景にあるのは情報化と人口移動なので、単に数的な拡大を目指しつづけるコミュニティというのはやっぱり厳しい。

じゃあコミュニティを維持するために(維持を目的化することが本当に良いことなのかどうかの議論はいったん置きます。)、どんなことができるでしょうか。

たとえば「閉鎖的なコミュニティ」化を目指す選択肢があります。できるだけコミュニティの構成員を外部の「ハレ」に接触させない。鎖国です。コミュニティ内部の基準、ルールのみで「ハレ」と「ケ」が作れるのでチューニングが容易です。しかし「閉ざし続ける」という戦略が難しいことは、日本は150年前に既に経験してるわけですね。

再度書きますが、「ハレとケ」という概念は日常と非日常の対比です。

もしコミュニティを維持しようとするのなら、自分たちの「ハレ」は他のコミュニティから見たときに「ケ」である可能性もあるし、そのまた逆も然り、ということを前提にしたほうがいいように思います。そして目の前にいるそのコミュニティの構成員は、明日別のコミュニティに属しているかもしれなくて、そこでは「ハレとケ」のルールが入れ替わっていたり全く違うものであったりすることも。

ここでひとつ、「内と外へ二面性のある表現をすること」を提示しておきたいと思います。

コミュニティ内部に向けた表現、インナーマーケティングと言ってもいいんですけども、これは「ハレとケ」を明示しておくほうがよくて、自分たちが守りたいものはこういう「ケ」の姿であると。そのためにこのような「ハレ」をおくんだということをはっきり共有するわけです。

いっぽうで、コミュニティの外に向けては、自分たちにとっての「ケ」を「ハレ」と感じてくれる別のコミュニティとの接触を目指す表現をする。似たようなコミュニティどうしでつながりやすいのが現代ですが、それよりも価値基準の異なるコミュニティの血が入るバイパスを確保しておく。チューニングを自分たちの手から離し、仮にもともと内部にいた構成員が居なくなったり衰退したりしても、血が絶えないようにするのです。そのとき「もともとのハレ」は維持できていない可能性が高いので、「(もともとの)ケ」を「ハレ」と感じてくれる別の構成員がそこにいる必要があるのです。

自分が直接面識のある方々の属するコミュニティにも、この二面性を備えたものがいくつか頭に浮かびます。狙ってそうしているのかどうかは別として、共通点を見出そうとしてみると上記のように見えています、というのが今回の話。

「ハレとケ」という言葉は「聖と俗」と言い換えてもいい。メディアというのは聖と俗を結ぶもの、ハレとケを媒介するものでなければならないので、ではコミュニティメディアというのはどうあるべきかという話につながるのですがこの話は長くなるのでまた別の機会に。